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世界旅行記 8 中国入院日記 1
2009-05-27 Wed 22:38
4月23日

朝起きると、しなければならないことがあったのでパソコンで作業をした。Yahooニュースで草彅剛が捕まったことを知った。日本はホントにくだらないことしてるな、と思った。しばらくして朝食を食べるために外に出た。出る時、泊まっていたホテルのスタッフにシャングリラ行きのバスについて聞いた。朝早くに出るバスがあるということで、翌日出ることを決めた。朝食を食べ終わると、麗江のハイライトである玉竜雪山に行くための準備をした。

シャワーを浴びるためにバスルームに入った。

そのバスルームは公衆電話ボックスくらいの大きさで、しかも換気扇がなかった。「こんなんでカビははえないんだろうか?」と思った。寒いのに、蒸気がこもってしまうので、ベッドルームの窓を開けなければならなかった。しかもバスルームのドアが完全に閉まらないため、初日と二日目はとても寒い思いをしながらシャワーを浴びた。ただ、ドアが完全に閉まらないことは東南アジアではよくあることだったので、特に気にしてはいなかった。

そして三日目。

この日は特別に寒かった。麗江は標高が高いため日中は暑いくらいだが、朝夜はとても冷える。まず、熱いシャワーを出しっぱなしにして蒸気でバスルームを温めた。しばらくして中に入り、ドアを閉めようとした。一回、二回、普通の力で押したが閉まらないので、三回目、強く押して完全に閉めた。

シャワーを浴びた。

バスルームから出ようとした。

ドアが開かない。。。出られない。。。。。

当然色々試した。ドアノブをまわす方向が間違っているのか?いや、間違っていない。押したり引いたりしてみる。開かない。渾身の力を込めて開けようとする。開かない。足を使って壁をけり、その反動を利用して開けようとしてみるが、、、開かない!

十五分ほど必死になって開けようとしていただろうか。最初から気にはなっていたことだけど、、、

息が苦しくなってきた。。。

換気扇と窓は前述のとおり無い。

ドアは完全に開かないぐらいなので、ぴったり閉まったてる。ほとんど隙間もない。

バスルームの中はもともと蒸気で一杯で、ほとんどサウナ状態だった。

必死にドアを開けようとしていたため、自分自身も息切れしている。

完全な密室の中で。。。

今まで無駄だと思ってやらなかったが、ついに声を出してみる。だがやはり何の効果もない。このバスルームは部屋の中にあるので、壁が二重にあるだけではなく、部屋自体が他の部屋と離れたところにあるので、隣の部屋の人に声が届くことはなさそうだった。さらに、ほとんどの人が早朝、ツアーに出るので、昼に近いこの時間、宿が人気もなく静かなことは分かりきっていた。また、スタッフが何の目的もなくこの部屋の前の通路を通ることも、あまりなさそうなことだった。それを狙うにしても、何時間かの間声を出し続けなければならない。この宿はルームクリーニングも頼まなければしてくれないところだったので、二、三日音沙汰なしでも誰も気づかないかもしれない。

こんな狭いバスルームの中で今、窒息死の危険が迫っている。

そう思うとカッとなった。

ドアは15センチくらいの幅の木の枠があって、その中に長身大のガラスがはまっているという構造だった。ガラスは曇り窓で少し厚そうな感じがした。

タオルを巻き、パンチした。

腕が戻ってきたとき、ひじの裏のところから血がシャワーのように出て頭から浴びた。

体中が血だらけになった。

窓ガラスは完全に割れ、閉じ込められているという焦りがなくなり、息ができるようになったのもあるだろうか、、、

途端に冷静になった。

急いでバスルームから出てズボンをはき、腕を縛った。

三十秒もかからなかったと思うが、吹き出た血の量が半端なく、部屋が真っ赤になった。

人は三分の一か二かの血が出ると死ぬというが、このままいけば、、、余裕で超える。

これはマジにヤバイと思った。

これは。。。。。 マジに死ぬかもしれない。

急いで一階のフロアに階段で降り、助けを求めた。

フロアには最初誰もいなかったが、すぐに人が駆けつけてきてくれた。最初、面食らったような表情で一時停止したような感じだったが、すぐに事態の深刻さを分かってくれてようだった。

肩をかついで外に出そうとしてくれた。

そして宿を出て十歩も歩かないうちに意識を失った。



家族を中心に色々な人が現れた。とにかく人が自分の前に現れては消えていった。随分時間がたったように思ったが、ある時、何故か下半身がなくなったような気がした。

あれ?俺の下半身はどこに行ったんだろう?どうしちゃったんだっけ?

それで思い出してきた。

あれ?ていうか俺は何をしてたんだっけ?夢を見ている?

そうだ。俺は、、、死にかけてるんだ。今のは走馬灯?

ダメだ。こんなところで死ぬわけにはいかない。生きなくちゃ!



そう思って目が覚めると、丁度タンカが来たところだった。

タンカに乗せてもらうと、太陽がまぶしかった。

透き通るような水色の空に、太陽が白く輝いていた。

素晴らしく綺麗だと感じた。

太陽のことを思っていると、意識が薄れてきた。だめだ、絶対に生きてやる、生き抜いてやる、そう思った。忘れないでそれだけを考え続けようと思った。太陽を綺麗だと感じる。意識が遠のく。生きてやる。。。その繰り返しだった。

生きてやる、生き残ってやる、生き抜いてやる。。。

しばらくして町の簡易医療所みたいなところに着いた。色々聞かれるが、声が出ない。。。しゃべることができない!腕もまったく動かない。医者が状態を見ようとして、腕に巻いてあったものを取ると、ブシャッと血が吹き出た。

救急車が来た。意識が薄い。寒い。

病院に着くと、小汚い控え室でしばらく待たされた。この間、警官が来て事故の状況について色々聞いてきた。しゃべることができないので口をパクパク動かしてるだけなのだが、しつこく聞いてくる。「こんな時に聞いてくんじゃねー」と思ったが、手術に影響するかもしれないと思って力を出すと、少しだけ声が出た。ガラスで切ったことと、血液型がB型であることを伝えた。恐ろしく寒いから毛布をかけてくれとも頼んだ。

腕をみると、醜い色になって膨れ上がっていた。動かすことは完全に出来ない。生き残ったとしても、腕を切断する可能性があるかもしれない、そう思った。素人見だったが、それほどひどかった。

時々その部屋から警官も医者も誰もいなくなるときがあった。そのときは意識が遠のいてホントに寂しく感じた。こんな片田舎の病院の小汚い部屋で、誰にも気づかれずに死ぬなんてことは、絶対にいやだと思った。

ガラにもなく、警官に手を握ってくれるよう頼んだ。力が伝わってくるような気がして心強く感じた。

三十分ほどして手術室に運ばれた。こっちは命がかかっているというのに、皆は談笑しながら手術の準備をしていた。設備や部屋自体も日本では考えられないくらいボロかった。

ガスマスクみたいなのをさせられた。

しばらくすると完全に意識を失った。

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別窓 麗江市人民医院(入院日記) コメント:0 トラックバック:0 ∧top | under∨
世界旅行記 9 中国入院日記 2
2009-06-01 Mon 17:06
目覚めると知らない部屋にいた。意識を失う前にいた病室から比べると格段に綺麗な部屋で、何人かの看護婦さんがせわしなく動いていた。俺のほかに二人の患者がいて、二人とも意識はなく、心臓の波打つ映像を映すモニターだけが、ピコンピコンと音を出していた。

生きてる。。。

何時間意識を失ってたんだろう?分からない。あのガスマスクは、全身麻酔の睡眠ガスみたいなものを出していたんだろうと気づく。

腕は、、、ギブスと包帯でぐるぐる巻きにされていて、動くかどうか分からない。痛みと熱さだけがある。

指は、、、ぎこちないが動くようになってる!

声は、、、枯れてるが出る!!

ただ、体中が管だらけになってる。点滴の注射がいたるところに刺さってて、身動きが取れない。鼻にも酸素チューブが入ってる。そして、下半身にも、、、管が入ってる。

経験のある人は分かるかもしれないけど、これがメチャクチャ痛い。小便をするたびに激痛が走る。だから我慢するんだけど、点滴を打ってる間はしたくなるのがとても早くなる。だから恐る恐るするんだけど、もうホントに身をよじるほど痛い。

じっとしながら腕を切ったときのことを思い返した。あの時ドアが開かなかったのは確かだ。どんなに頑張ってもビクともしなかった。

そこでガラスを割ろうと決断する。

これを読んでいる人はもうちょっと待てば良かったのに、と思うかもしれない。でもあの時の尋常じゃない焦りと息苦しさは、実際に体験しないと分からないと思う。

でもガラスを「拳」で割るという行為は。。。もっと冷静になって考えるべきだった。何かを投げるという選択肢があった。シャワーは固定されていたのでそれで割るのは無理だったけど、シャンプー入れみたいなのを持っていたのでそれを投げてみてもよかったかもしれない。女だったら当然何かを投げることになるんだろう。でもガラスで割るシーンってTVとか映画とかでよく見るし、俺はほとんど反射的にパンチすることに決めていた。閉じ込められた恐怖で舞い上がっていたのもあるかもしれない。さらに悪かったことは、曇り窓で厚いと思っていたガラスが、極端に薄かったこと。しかも粉々に割れるんじゃなくて、安物によくあるような、デッカイかたまりになって割れるやつだったこと。だから思ったより簡単に割れて腕が奥に入ってしまった。

シャンプーはコンビニで売ってるような携帯用の小さい奴だったので、恐らくそれでは割れなかったと思うが、もう少し慎重になって色々と考えてもよかった。

ホントに後悔する。

でもすでに起こったことを今更悔やんでも遅いので、とにかく一日でも早く治すことを考えなければいけない。

そんなことを考えながら数時間ボーっとしてると電話を渡された。

友達だった。「え?何故?親じゃなくて?どうやって番号調べたんだろう?」と思った。

「大動脈切ったらしいじゃん!大丈夫!?」

え。俺大動脈切ったんだ?まぁそこまでいってるだろうとは思ってたけど。この病院では英語を話せる人がほとんどいないので、専門的なことになると日本のほうが情報が早いし、一回日本を通さないと確かなことが分からないという不便な状況だった。

友達との電話が終わるとすぐに親からかかってきた。俺は自分の状況もよく分からない状態だったが、とにかく帰国を迫られるのがいやで、全然大丈夫だと言った。

あまり考える力もなく、この日は痛み(特に傷と関係ない下半身の痛み)に堪えながら一夜を越した。


翌日、昼に一般病棟に移されることになった。この時はそう言われて意外と回復が早く、たいしたことないのかもしれない、なんて思ったりした。

一般病棟に移るとき、長岡さん夫妻が駆けつけてきてくれた。

彼らと初めて会ったのはカンボジアの首都、プノンペンだった。俺と同じく世界一周中で、しかも同い年だった。キリングフィールド行きのバスの中で会ったのだけれど、同じバスでオーストラリア育ちのインド人女性と仲良くなり、ずっと一緒にいたのでこのときはあまり話せなかった。宿に帰ってきたときやっと話して、世界一周中だと知ったのだけれど、俺はもうすでにシェムリアップ行きのバスを予約していて、出発まで後一時間しかなかった。だから初めて会う世界一周中の日本人に色々聞きたいこともあったのだけれど、すぐに別れてしまった。

彼らは東回りにベトナムを目指すルート、俺は西回りにタイ、ラオスを目指すルートだった。

それが中国の大理という町で偶然会うことになった。旅をしているとこういうことが時々ある。

しばらく話して俺は先に麗江に向かった。

「良い旅を」と言って。

それが次会ったときには、全身管だらけになってベッドごと移送されてるところだったので、向こうもたいそう驚いたと思う。

長岡さん夫妻にはホントにお世話になった。感謝の意を伝えると、ベトナムのサイゴンでデジカメを盗まれた時の話をしてくれた。警察への行き方が分からず困っていたとき、ベトナム駐在の日本人に会って送迎から通訳まで何から何までしてくれたらしい。で、「困ったときはお互い様」と言われたらしい。

当たり前の言葉だけど、身にしみる。俺も「困ったときはお互い様」の輪をつなげなければいけないと思った。


そんなこんなで警察の人や宿の人がお見舞いに来てくれたりして、あっという間に夜を迎えた。そして一人になると、色々と問題が浮上してきた。

まず、一般病棟では看護婦も医者もみんな英語がまったくしゃべれない。俺は片言なら中国語もしゃべれたけど、それじゃ限界がある。(いや、英語も片言だけど。)で、看護婦は「中国語がしゃべれないならお手上げだわ」みたいな感じで全然取り合ってくれない。

そして俺は身動きがまったく取れない。しかもこの病院では日本ではありえないことだけど、食事が出ない。中国、少なくとも雲南省では、誰かが入院したら家族が24時間付き添うのが常識らしく、それができないなら自分で買いに行くしかない。でも俺は家族もいないし、ベッドから離れられない。だから小便も一人じゃできない!

しかもこの病室は俺を含めて三人の患者がいて、俺は一番ドア側のベッドだったのだけれど、向こう端の窓側の患者が若者で、その見舞いにきてる友達たちがモックモクにタバコを焚いている。そういえば見舞いに来た警官もタバコを室内で吸ってた。そして床にポイ捨てする。(たまった吸殻は一日一回モップで掃除されるのだけれど、汚いトイレと一緒に掃除するので、床は見た目は綺麗でも、素肌じゃ触れられないほどの不潔感がある。)

さらに、俺のベッドの前にトイレがあるのだけれど、そのトイレが半端なくクサイ。ヒドイ時は寝ててもベッドまで匂ってくる。

堪えられなくなって看護婦を呼び、朝までいた綺麗な緊急治療室に戻してくれと頼んだ。でもそれは無理だといわれた。あそこは急患のための部屋だという。それは分かるが俺は外国人で中国語が話せないからなんとかならないか、と聞くが、やはり無理だという。そして約20日ほど入院するだろうとも言われた。

このとき俺がどれほど不安だったか。

小便がしたくなるたび、ブザーで看護婦を呼び、尿瓶を取ってもらい、当然部屋中の人を起こした。痛みと不安のなか、眠れない夜を過ごした。

翌朝隣のベッドの、夫を看護してるおばさんが、朝食のおかゆを買ってきてくれてそれを食べさせてもらった。夫の面倒も大変だというのに、わざわざおかゆを一口一口スプーンで運んでくれた。微笑みながら優しく面倒をみてくれたおばさんの優しさに、涙がこぼれた。

しばらくして宿の人たちがきた。一人のおばさんを連れてきていた。35歳で名前を王(ワン)といった。お金はかかるが、ヘルパーとして24時間俺に付き添ってくれるらしい。

この時からかけがえのない経験となる、麗江市人民病院、外二科の入院生活が始まった。





(結論から言えば俺は無事で今は全然元気です。心配かけた皆様本当に申し訳ないです。)

別窓 麗江市人民医院(入院日記) コメント:0 トラックバック:0 ∧top | under∨
世界旅行記 10 中国入院日記 3
2009-06-16 Tue 20:57
入院中はホントに色々なことを感じたり学んだり体験したりしたけど、書いてるときりがないので簡潔に。ちょっと雑に書きます。

とりあえず最初は病院を出て、太陽の下、自分の足で散歩することを夢のように想っていた。けど実際は四日目には外出できるようになり、病院の前の庭を散歩した。このときあまり無理はできないのでベンチに腰掛けていたのだけれど、ただひなたぼっこをしているだけで、静かだけど強い幸福感を感じたのをよく覚えている。

その日の夜、俺以外の二人の患者は退院していなくなっていた。中国の病院では金が払えないと入院し続けることはできない。だから皆早めに退院していく。けれど患者が俺一人だけの静かな時間もつかの間で、寝ていると深夜の二時くらい、血だらけの少年とその友達たちが入ってきて騒然となった。少年は頭から大量の血を流していて、顔中血だらけでお化けみたいだった。友達たちは大声で色々と話していて、もう眠るどころじゃなくなった。

朝になると少年の母親がきた。母親は野菜とかを入れるかごを背負ったまま来ていて、人目で農民だと分かった。そして入り口で自分の息子を見るなり号泣した。その泣きっぷりは痛々しくて、見るに耐えないほどだった。おえつを交えながら泣き叫んでいた。少年は最初は目をつぶりながらじっとしていたけど、しばらくすると静かに涙を流しているのが見えた。

話ではケンカの最中にビール瓶で頭を割られ、その破片が頭蓋骨に食い込んでいるということだった。しかも貧しい農家なので金が払えない。

ここ中国、少なくともこの病院では、金が払えないと手術もしてもらえないということだった。だから結局この少年は、親戚からの募金や借金で手術費が集まるまで、破片が頭に食い込んだまま一週間近く待機していた。母親は、毎夜息子を抱きながら、同じベッドで寝るようになった。(ちなみに中国は一人っ子政策だが、金を払えば二人目も産めるらしい。ただ、貧しい農民の人たちはお金が払えないので、二人目を生んでも届出を出さず、それが今いろいろと問題になってるらしい。)

保険会社から派遣された和さんいわく、外国人が来るような観光地はみせかけで、山をひとつ越えた農村では悲惨な現実が繰り広げられているということだった。


話は変わってヘルパーのワンさんは、顔に大きな傷がいくつかあった。ずっと聞かないでいたけれど、24時間付き添いなので自然と仲良くなり、入院一週間目だったかついにその話になった。酒とギャンブルと女が好きで、暴力を働くという絵に描いたようなダメ夫に、ぶん殴られたときについた傷だという。一年ほど前に離婚しているが、今は不景気で職もなく、子供の養育が大変らしい。だが、色々と大変なことはあるけれど、子供のためならなんでもできる、命と引き換えにでも子供を立派な大人に育ててやる、という話を涙ながらに聞かされた。

中国の現状、母親、それに命ということについて色々と考えさせられた。



最後の晩、俺の隣のベッドのおっさんとワンさんとで議論になった。

議題は俺が帰国するべきかどうか。次の日の朝に俺は抜糸をし、その状態によって医者が診断をくだすことになっていた。

ワンさんは帰国しなくてもいいはずだという。きっと大丈夫。腕はよくなってるはずだし、少しの間動きづらくて大変かもしれないが、どんなに辛くともやる気さえあればなんでもできる。夢があるなら達成するべきだといった。

おっさんは帰国するべきだといった。腱と大動脈を切ったら腕が動かなくなる可能性もある。田舎の病院の診断は完全に信頼できるものではないので、ちゃんとした病院で見てもらうべきだといった。もし世界一周がしたいのなら、いったん帰国してまたやり直せばいいじゃないかといった。

「いったん帰国すればいい」

それは本当に正論だと想う。恐らくほとんどの人がそう思うだろう。でも俺にとってそれは中途断念、敗北以外の何物でもなかった。

世界一周の旅にでてほとんど西に進んでもいないのに、たった二ヶ月で帰るということは、ハナから選択肢の外にあることだった。

けどおっさんの言うこともわかる。だから結局その中間の案を取った。明日医者が問題ないといえばもちろんそれでOK。もしダメだったとしても、西安まで行ってそこの一番いい病院にいけばかなりいい治療がうけられるはずだ。一ヶ月でも二ヶ月でもリハビリをすればいい。そうすれば旅をあきらめる必要もないし、中国語の勉強もできる。それでようやくおっさんも納得してくれた。

次の日の朝、抜糸をした後ワンさんに状態を聞いてもらった。帰ってきたワンさんは筆談を交えながら丁寧に教えてくれた。(ワンさんも含め、この病院の全ての人はごく簡単な英語も話せない)

「あなたは帰らなければならない。ギブスが取れるまで正確な状態はわからないが、腱と大動脈を切って神経にも異常をきたいしている以上、あなたの腕は「一生」完全に動かなくなる可能性がある。だから、日本の最高の病院で見てもらい、リハビリをする必要がある。もしかしたら再手術もしなければいけないかもしれない。」

それを聞いた俺は信じられなくて、ホントに「一生」動かせない可能性があるのかと何度も聞いた。

俺がどんなにこの旅を夢見ていたかを知っていたワンさんは、涙を流してうなづいた。

「あなたは帰らなければいけない」

あんなに俺を励ましていたワンさんが言うのだから本当なのだろう。

右腕と旅、どちらをとらなければいけないかは明らかだった。

そのとき俺がどんな気持ちだったか。

右腕が動かないなんてことはそのときはどうでもよかったし、あまり実感もなかった。

ただただ旅をあきらめなければいけないということが悔しくて仕方なかった。

しかも半分オウンゴールのような間抜けな形で!

自分自身をぶん殴りたい気持ちだった。

自分が負け犬だということを強く感じた。


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日本に帰るとすぐに病院にいった。が、やはりギブスをとってしばらくしないと正確な状態はわからないという。でも交換したときの感触ではそこまで悪くないんじゃないかという。期待をもって関東労災の腱の切断に関して権威のある医者に診てもらった。

ギブスをとって診断してもらった結果は、、、最高の状態だということだった。ここまで腱と大動脈を切ってつなげられる医者は横浜市内にもそんなにいないということだった。病院の環境は最悪だったが、医者の技術はすごかったらしい。

ホントに心から安心した。それでも一ヶ月は日本で安静にしている必要があるということだった。

その間、これまでの旅を活かして荷物を再構成し、金を稼ぎ、勉強をして再出発に備えることにした。

そして再出発の日を6月13日と決めた。


ということで、実は今リベンジ中です。中国の蘇州というところにいます。

ご心配やお世話をかけた皆様、すみませんでした。

次こそ生きて達成してみせます。
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 飛行機なしの世界一周旅日記 
 
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